諏訪勇さんがフランスチーズ鑑評騎士の会員に選ばれた頃、「父親の絵画作品展をしたいのだが・・・」と相談を持ちかけられた。この時までご尊父が絵を描いておられるということを全く耳にしていなかったので、ことの仔細を伺うと、既にその数300余点、倉庫に収蔵されているとのことである。永年手がけられた甘納豆製造一筋に職人気質で徹されて、60歳の手習いよろしく一念発起、通信教育で油絵を始められた。更に会社経営の第一線から退かれた後、洋画壇の巨匠中村琢次画伯の門を敲きその教えを乞うほどに、ほぼ20年近い歳月を経ている。その間に会社は「甘納豆の諏訪角」から「ナチュラルチーズのスワカク」へと、大変貌を遂げるに至った。
よく考えてみれば、純粋なアーテスト一途に職人気質を固執するわけで、ライフワークを貫徹する諏訪繁雄の面目躍如と、感動させられたことでもある。とっさの話ではあったが、厳冬期ながら直近の2月第一週が空いていたので早速会場を予約した。作品の選定、会場のディスプレーは、新進気鋭の閨秀画家小山利枝子さんが、献身的に協力してくださることで、万事よろしく運ぶに至った。
傘寿紀念と銘打ったこの展観には、ご本人を始め一族郎党、友人知人が呼応され、会場は連日大勢の参観者で賑った。そこには一職人の生きざまを垣間みるようでもある。1点1点のそれぞれに直向きさが心に残った。

「絵はうまく描こうと思った時、既にそれは自分の作品とはいえない」という格言がある。
巧拙を超えて終始わが道をまっしぐらに突き進む信条こそ、この人の生きがいとでも評すべきであろうか。それだけに多くの話題を提供した異色展であったという鮮烈な印象がある。それ以上にご本人周辺には様々の反応があったことは想像に難くない。
中でも会場入口真向いに掲げられた「家族の肖像」(100号F)の大作は、本人誕生を記念した当時の写真を模写したもので、祖父への熱い思いを描いた諏訪一家の肖像でもある。大正デモクラシー、昭和初期の不況、そして長い間の戦時下を経て、戦後半世紀近く、幾多の辛酸をなめながら家業を創められた栄えある記念碑である。
このほどこの記念展を機に、集大成した画集としたいというお考えに共感して、思いつく儘に一文を草した失礼をお許し戴きたい。
今後益々ご健勝で、諏訪家の総師としてご活躍されるとともに、ご一家のいっそうのご繁栄を心より祈念申し上げます。
倉庫のなかにうず高く積まれた作品を前に、私は立ち尽くしていた。すべての作品は額装され箱に収まり、その中から出現して、観られる事を望みながら、箱の中でそれぞれに囁いているようだった。その囁きが明瞭な声になり、私に語りかけてきた時、私はその声を、しっかり聞き取る事が出来るのだろうか。
諏訪繁雄さんの傘寿記念の個展の作品構成を依頼され、予想以上に膨大な数の作品を前にした時、私は不安になった。私には余りにも重い仕事に思われたのだ。しかし不安が、わくわくした楽しみに変わるのに時間はかからなかった。箱から開放された一枚一枚の絵は、いかにも楽しげに私に語りかけてくれたのである。
作品群の中で圧倒的多数を占めている風景画は、四季折々の空気を運んでくれた。初夏の爽やかな新緑、秋の紅葉が夕焼けにそまっている一時、雪山の美しさ、そして水がぬるみ花々が咲き始める春の喜び。信州に暮らしている人間ならば、自然の移り変りに感嘆せずにはいられない。この美しさを描いてみたい。誰もがその思いにかられるのではないだろうか。諏訪さんの絵には、その思いが屈折なく表れている。感動と直結した絵に迷いはない。すべての絵に共通する発色の良さは、そこからきていると思われる。夥しい数の風景画の中から、点々と花の絵や人物画が現れる。人物画には家族の肖像が多い。とても丁寧に描かれているそれらの人物画には愛情が感じられる。そんな作品群の中から写実とは異なる幻想風景画飛び出してきた時私は驚いた。雪の中を輪舞している少女達、記憶の底から甦ったような夏の夜の花火、そしてライオンのいる風景。現実の生活の中で、人は様々なイメージをも心の中で所有する事を知っている。そんな心の中の風景がそこにはあった。写し絵のように描かれたそれらの絵は、写実的な絵とは違う声で私に語りかけてくるのだった。また名画の模写からは、芸術というものへの憧れと、そこから学ぼうとする真摯な思いが伝わってきた。
風景も人物も花も心象風景も様々なスタイルで描かれている。しかしそれはその時の諏訪さんの心に一番そぐわしいスタイルなのだ。人が何かに感動し、それを表現したいと思うその心こそが、表現の根源である。それ以外の事にとらわれなければ、絵を描くという事は喜びであり、祝福されるべき事なのだ。諏訪さんの作品を観ているうちに、私は絵を描く事の純粋な喜びを改めて教えられていた。私が最初に不安を感じたのは、作品を解釈しようとしていた為であった事にいつの間にか気づいていた。膨大な数の作品を観終わった時、私は、森の中で小鳥の声を聞くような素直な、そして爽やかな心になっていた。
サバンナを描いた絵がある。前景に人の顔によく似たライオンが大きく3頭描かれ、中景にはゾウやキリンやシマウマが憩い、ヌーの移動している様子もうかがえる。その動物の群れに混じって、1台のジープが止まっている。監視員だろうか、観光客が見物でもしているのだろうか。目を空に移すと、ジェット機やヘリコプターまでも舞っている。雪をいただいたキリマンジャロらしい山容も遠く見える。あれもこれも目いっぱい描かれているのに、静で穏やかな絵である。
また、初夏の田園風景の中を2羽のツバメが飛んでいる絵がある。ツバメは青々とした田んぼの上をすごい速さで空気を裂いて飛んでいる。一瞬の光景を写真のスナップショットのように捉えている。
諏訪さんは心に浮かんだ風景を、あるいは目の前に広がる風景を、なんのてらいもなく、いとも簡単に描いてしまった。絵を見ていると、諏訪さんの心に直に触れたような気がして、ぼくはうれしくなってしまう。
19993年2月、「ギャラリー82」で諏訪繁雄さんの展覧会が開かれ、その折、長男の勇さんから作品集製作のための模写を依頼された。数日後、約70点の作品を撮影しつつ、じっくり眺めていった。
なんて素直な絵なんだろう。筆使いにためらいが感じられない。たんたんと心の趣くまま筆を運んでいる。知識で武装し、対象と格闘し、捩じ伏せるようにして描いた絵画、あるいは技術だけで成り立っているような絵画とは無縁の世界である。忠実な描写も、形の統一も、遠近感も、諏訪さんにとって第一の目的ではなかった。筆の運びがいつの間にディフォルメしていっただけのことである。それでいて、バランスを崩し歪んだフォルムが、これしかない正当な線や形だと思わせる。諏訪さんの諏訪さんらしさだ。描く者の資質が丸ごとキャンバスに表出し、定着されている。
これは60才から絵を描き始めたことと無関係ではないだろう。アートの潮流や絵画団体の軋轢から離れ、描きたい絵を描きたい時に描いてきた結果だと思える。
作品はもう倉庫に納まりきらないほどあるんですよと勇さんは言っていた。倉庫をもうひとつ確保しなければならないとしても、諏訪さんにはまだまだ描いていってもらいたい、観る者を驚かせ楽しませ続けていってもらいたいと願っています。
諏訪繁雄略歴
大正2年(1913)10月15日、長野県埴科郡屋代町(現更埴市)で材木商・穀商を営む諏訪角平の次男として生まれる。
屋代尋常小学校を卒業後、東京相沢商店に奉公して甘納豆の製造に従事するが、松本にて応召。終戦後は警視庁立川駐在所に勤務。
その後、屋代に戻り、昭和23年(1948)には製菓材料店を長野市に開き、同27年(1952)には有限会社諏訪角商店を設立。"コツ"な職人気質で甘納豆の製造に励む。
昭和48年(1973)1月から49年(1974)1月にかけて、まさに"60の手習い"
---------小さい頃よりずうっと抱き続けた夢実現のため、日美絵画研究所の通信教育で油絵を学び、その後は会社経営の一線を退き、中村琢二氏に油絵を本格的に師事。
「甘納豆の諏訪角」から「ナチュラルチーズのスワカク」への返還を見届けつつ、80歳を過ぎた今なおキャンバスに向かう日々をおくる。
平成5年(1993)2月、長野市のギャラリー82で傘寿記念の諏訪繁雄展を開く。
ギャラリー82で個展開催後、翌年1994年(平成6年)10月15日父繁雄の誕生日に画集を発行した。





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